友弦流大正琴

幸せの調べを奏でる楽器

大正琴を楽しみながら生涯学習

大正琴とは?
琴の起こり
現在、日本で一般的に(こと)と呼ばれている楽器は、奈良時代に中国(唐)より雅楽の楽器として伝来したものです。

しかし、日本にはそれ以前から「和琴(わごん)」、「倭琴(やまとごと)」と呼ばれる別の弦楽器がありました。(一般の琴が弦13本に対して、和琴は弦6本)

一方、大正琴の起源を辿っていくと、そのいづれの系譜にも属さない「一弦琴」、「二弦琴」という非常にシンプルな弦楽器に行きつきます。

「一弦琴」は、平安時代の初期、在原業平(ありわらのなりひら)の兄(在原行平)が須磨に流された時、渚で拾った板に冠の緒を張り、岸辺にあった葦の茎を爪にして弾き、自ら不運の日々を慰めたと伝えられています。

「一弦琴」は幕末時代に流行し、坂本龍馬の姉(乙女)と龍馬の初恋の人・平井加尾は同じ師から一弦琴を学んでいました。また、勤皇の志士たちは倒幕の密会を開く表向きの理由として“一弦琴の会”をたびたび開いていたとされています。

この「一弦琴」を基にして明治初期に考案されたのが、八雲琴(やくもごと)と呼ばれる「二弦琴」です。

八雲琴は、古事記にある「天の沼琴(あめのぬごと)」(神器)を、江戸末期に中山琴主(なかやまことぬし)が復活させたものです。中山琴主は『この琴は人にきかさず 只神に手向けて 御世を安く祈らん』と詠って、俗曲を弾く事を禁じています。

文豪の夏目漱石は「吾輩は猫である」の中で、隣に住む「二絃琴」の師匠が飼っている“三毛子”という雌猫を登場させて、物語にスパイスを付加しています。

西洋文明が開化したこの時代に「二弦琴」が好まれたのは、『簡潔さの中にこそ美があり魂が宿る』という日本古来の思想が、進みゆく西洋化の対極として反映されたものと考えられています。
文化の衝撃
明治7年、名古屋(大須門前町)の旅館「森田屋」の長男として生まれた川口仁三郎(にさぶろう)は、旅館の屋号から通称「森田吾郎」と名乗っていました。

音楽とは縁のない世界に生まれた森田吾郎の人生を変えたのは、その感性の鋭さと旺盛な探究心でした。

その当時の大須は、料亭や遊廓が並ぶ名古屋一の繁華街で、三味線や琴の音色が絶え間なく聞こえてくる華やかな街でした。そんな環境の中で育った吾郎は、音楽の才能に恵まれ、手先が器用で物づくりが得意な少年でした。

14歳の頃、彼は二絃琴や明笛(みんてき:中国から伝来した横笛)を演奏するようになっていました。

25歳の時、吾郎は演奏旅行のためにヨーロッパに渡ります。

そこで吾郎が見たものは、音楽が日常生活に溶け込み、大衆に浸透して生活に潤いを与えているという事実でした。吾郎は、異国の音楽文化のレベルの高さに衝撃を受けます。

「日本では、学校で唱歌を学ぶためにオルガンやピアノなどの洋楽器を用いているのに、家庭で復習しようと思っても箏・三味線しかない。学校と家庭の音楽環境が違うのでは音楽界の発展はない。高価なピアノなどに代わる、安価で、洋楽の復習ができる楽器を作らなければいけない」

吾郎は、そう決心しました。

「邦楽」が伝統音楽として厳然と存在する日本において、明治の御代以来、唱歌を始めとして西洋音楽のみを義務教育として教え込んできたのは、考えてみると実に奇妙なことでした。
閃きと運
吾郎は演奏旅行中に、ヨーロッパでは文章作成のために日常使われている「タイプライター」を見て、新しい楽器のメカニズムのヒントを得ます。

ここまで「大正琴のお話」をお読みいただいてきた貴方は既にご存じのことと思います。

貴方のパソコンのお手元にあるキーボードが「タイプライター」の子孫であることを。

吾郎がヨーロッパに渡った明治32年(1899年)頃の「タイプライター」は、仕様が標準化された完成度の高い“機械式”のものであったと思われます。文字のキーにアームがつながっていて、その先端に活字部分があるものです。
(これは昭和50年代までは日本でも販売されていました)

もし、吾郎と「タイプライター」との出逢いがあと15年遅かったら、今の大正琴はなかったかも知れません。何故ならば、1914年に機械式とは形状も構造も異なる、世界初の実用的な電動式タイプライターが発明されているからです。

そんな絶妙のタイミングという運にも恵まれて帰国した後、吾郎は新しい楽器作りに取りかかりました。

そして、当時日本で人気が高く自らも演奏した「二絃琴」を基本に、「タイプライター」からヒントを得たボタン装置を組み合わせて、鍵盤付き弦楽器を完成させました。

大正1年9月9日に全国で一斉発売され、
その日が重陽の節句(菊に長寿を祈る日)であったことから
「菊琴」と名付けられたこの新しい楽器が、
後に大正琴の名で親しまれ
百万人を越える愛好家を誕生させることになります。
歴史的遺産
大正琴はその後、愛好家や製造元の絶え間ない努力により、幾多の改良が加えられていきました。しかし、大正琴が今日の隆盛を見るまでにはいくつもの紆余曲折がありました。

太平洋戦争という危機の時代を乗り越えて、流行も衰退も経験しながら、一世紀の時を経て、大正琴は「日本の楽器」としてのステータスを得て現在に至ります。

栄枯盛衰は世の常ながら、真に価値のあるものは、ひと時衰退しても再び蘇ってその光を放つことでしょう。

大正琴もそうした運命を辿りながら今日に至りましたが、やはりそれは、森田吾郎の歴史的遺産と言うしかありません。
現代琴事情
現代の大正琴は、木製の空胴に5~6本の金属弦を張り、27個の鍵盤(キー)を備えた、軽量でコンパクトな楽器となっています。
※写真(左)の大正琴は、友弦流のロゴ入りモデル
「桜華(おうか)」(本体サイズ720mm)
演奏方法は、左手で鍵盤を押さえ、右手に持ったピックで弦を弾きます。向こう弾き(手前から向こう側へピックを動かす弾き方)が基本となります。

大正琴は邦楽と洋楽が混在する時代を経て、和・洋いずれの楽曲にも適する楽器として改良されてきました。

そのため、演歌・童謡・民謡からクラシック・ラテン・ポップス・最近のヒット曲まで、幅広いジャンルの楽曲をカバーできる点が特徴です。

大正琴の音域は2オクターブで、昭和50年代には従来のソプラノ音域の大正琴に加えて、アルト、テナー、ベース音域の大正琴が開発され、アンサンブル(複数の人が同時に演奏)も可能となり、一人で弾く楽器からグループで合奏可能な楽器に変貌を遂げました。
演奏会では、数十人で一斉に合奏するスタイルが主流になっています。うまく演奏するためには、呼吸を合わせることが大事です。そして、チームワークの輪が広がります。
だから …♪

大正琴をする人は、共通の目的を持ってつながる仲間が自然にできます。

多くの楽器は、始めたばかりの時はまともに音が出せなくて苦労しますが、大正琴は最初から簡単に音が出せ、すぐに、ある程度弾けるようになります。
だから …♪

大正琴をする人は、三日坊主にならず、成果が目に見えて表れますので“やりがい”が生まれます。

楽譜が理解できない人でも、ドレミの音階に対して数字の1,2,3…が分かりやすく鍵盤に表示されていて、何歳でスタートしても上達できる珍しい楽器と言えるでしょう。
だから …♪

大正琴をする人は、子供からお年寄りまで、老若男女を問わず人生を楽しんでいます。

おまけに …♪

大正琴を演奏する時は、楽譜を見て、鍵盤を押して、弦を弾くという両目、両手の動作を素早く繰り返しますので、脳がほどよく刺激されて、頭の体操(脳トレーニング)が自然にできてしまうのです。

大正琴とは、こんな素晴らしい楽器です。

あなたも大正琴を始めてみませんか?このウェブサイトのページをクルクル回って「大正琴の世界」を覗いてみてください。迷っておられる方やご質問がある方は遠慮なくお問い合わせください。
用意するのは「がんばる」という気持ちだけ